The boys' choir "Zanglust" ツァンクルスト少年合唱団 ~ 聴衆のすすり泣き入りのマタイ 全曲盤 ― 2009年03月07日 14時37分08秒
6747 168 3LP BACH MATTHAUS-PASSION -MENGELBERG PHILIPS
ぐーたらサラリーマンにとって異動(転勤)のシーズンは受難の季節でもありまして、異動先は自分にとっては思わしくなかったので、この2ヶ月というもの、お休みミュージックはマタイでした。
私の気分が復活なるかどうかは別として
今年の復活祭は4月12日、枝の主日(棕櫚の主日、受難の主日)は、4月5日なそうです。
この盤は、第2次世界大戦が始まる年、1939年の棕櫚の日曜日(復活祭直前の日曜日)に、アムステルダム・コンセルトヘボウで行われた演奏会の実況録音です。
2008年11月29日 に掲載した原稿を読むと、緊迫して暗い感じの演奏だったと自分では思っていたようでしたが、今回、全曲盤で、聴いた印象は、そのときほど暗くはないですし、すすり泣きも、ハッキリとは確認できませんでした。
(すすり泣きは、第39曲の独唱が終わった直後、(この盤では5LP)に入っているそうです)
今回聴いた感じでは、私にはピッタリ来るマタイでした。
特に民衆(合唱)の迫力があったと思います。
コンサート系合唱団にありがちな「きれいさ」はなく、
おろかさや身勝手さなどなど、生きている人間、群集そのものの気持ちが伝わってくるような気がしました。
私の場合、ただ単に、日本語訳を追いながら聴いていただけなので
詳しいことはわかりませんが、
合唱(民衆)に少年合唱団=子どもの声が入り、コラールには入らないとか、ソプラノやアルトのアリア、レチタティーボの役割とか、なにか約束ごとがあるんだろうな、とか思いました。
合唱に子どもの声を入れたのは、キリストの処刑と引き換えに、まだ生まれても居ない未来の人間にまで責任を負わせたのだ、とか、意味的に、アルトは女声でも良いけれど、ソプラノは、ボーイ・ソプラノが似合うんじゃないか、とか・・・どうなんでしょう?
マタイの世界に入り、いろいろと考え込んでしまうような、考えさせられるような、メンゲルベルクの世界です。
ウィーン少年合唱団 ~ フルトヴェングラーのマタイ ― 2009年03月10日 19時53分01秒
Bach ST.MATTHEW'S PASSION (SEVENSEAS K19C 9406/8)
これ、あくまでもフルトヴェングラーのマタイです。ウィーン少年合唱団は、合唱やコラールの一部に参加しているだけです。
続けて聴いてくると、(当然といえば当然ですが)指揮者によって解釈が違うんだなあということを感じます。それが良いとか悪いとかではなくて、違うということをです。
この音源は古いので、採録の仕方は良くありません。音の輪郭が滲んで聴こえてきますし、多くの音がとけかかった砂糖みたいに混じって聴こえ、一つ一つの音がクリアに聞こえません。
でも、この演奏も、私は好きです。
特に、ソロが良いと思います。女声アルトが好きです。
合唱やコラールに少年合唱団を入れたり外したり、その意味合いまでは私には聴こえていませんが、解らないなりに説得力があるなあと感じます。
テンポは遅いような気もしますが、演奏は丁寧で、少年の声が入ると涼しくなる。
この演奏を聴き始めたとき、メンゲルベルクのと比較して、なんだか華やかな感じがしました。原因はわかりません。
トーマス教会のマタイも良かったし、メンゲルベルクも良かったけれど、このフルトヴェングラーも良い。それぞれが違うのだけれど、どれも好きです。
日本語訳を見ながら聴いていて、受難曲だから、復活までは描かれていないんだ、と改めて確認したり、ホント、私って何も知らないですね。
最近、私は神さまに対して懐疑的です。
(キリスト教徒ではありませんので。念のため。で、近しく友だちみたいに呼んでいますが、信者のみなさん、悪意はありませんので、どうぞよろしくお願い致します。)
だから受難曲も斜に構えて聴いてしまう。
たとえば、ユダくんは、何故、キリちゃんを銀貨30枚で売ったのでしょう。お金を必要としていたとは思えません。
そしてペーちゃん(大好きなペテロくん)は、何故、3度も、キリちゃんを知らないと言ったのでしょう。
・・・全て「予言が成就されるため」ですよね。
普通だったらイチイチ チェックされないものを、なぜかわざとらしく? 鶏が鳴く前に3度も人がやってきて尋ねられた。言わされたのだと思います。聖書の中では、予言を思い返してペーちゃんは泣いたことになっているけれど、冷静に状況を判断したときに、そうさせられたのだと気が付いて、怒り狂ったと思いますよ~。(私だったら、腹を立てているだろうなあ)
登場人物の中で、どうも、神さまと通じていたらしいのは磔を前もってOKしていたらしいキリちゃんのみ。
とすると、途中で「エリ、ラマ、サバクタニ」と言ってしまったキリちゃんて・・・疑問符。
そしてそして、妄想たくましいですが、アルトのアリアさんについて。
彼女って、もしかしたら、キリちゃんを心から愛し信頼していた普通の人間の女性で、大勢の人に紛れて最後までキリちゃんを見守った(?護ってはいないかもしれないけれど)特別な人かな、って。
(そしてダヴィンチ・コードへつながる、なんちゃって)
アリアから、そういうストーリーが聴こえてくるんですよね~。
聖書をまともに読んでいる訳ではないですし、本当のところはわかりませんが。
なんだか、マタイを俗っぽく聴いてしまっている私です。信者のみなさま。ごめんなさい。
ウィーン少年合唱団 「マタイ受難曲」 ~ アーノンクールの美意識と少年合唱美が結実した理想的な盤 ― 2009年03月21日 21時51分03秒
JOHANN SEBASTIAN BACH:Matthaus-Passion BWV 224(TELEFUNKEN6.35047)
First complete recording with the original scoring and instruments
Concentus musicus Wien NIKOLAUS HARNONCOURT
(P)1971
Kurt Equiluz Tenor I(Evangelist)
Karl Ridderbusch Bass(Christus)
Wiener Sangerknaben Sopran
Paul Esswood Altus I
Tom Sutcliffe Altus
James Bowman Altus II
Nigel Rogers TenorII
Max van Egmond Bass I
Michael Schopper Bass II
Wiener Sangerknaben choirmaster: Hans Gillesberger
Knabenstimmen des Regensburger Domchor choirmaster:Christoph Lickleder
Mannerstimmen des King's College Choir Cambriger Conductor:David Willcocks
おそらくは完全盤で、4枚組LPです。
様々な合唱団のマタイを聴いた後での、聴き直しのアーノンクールは、テンポも速く、音も華麗。
オリジナルの楽譜と楽器による最初の完全録音、とありましたが、オリジナル曲って、こんなにオシャレでスマートだったんでしょうか?バッハの時代に行って聴いてみたいものです。このスーパー・クール!な演奏を。
抜粋盤で聴いたときは上手だけれど、心にぐっと来ない、なんて感じたものでしたが、今回は、ただただ抜群に上手!に聴こえました。
アルトソロを男声、ソプラノソロがウィーン少年合唱団員で、少年合唱はレーゲンスブルク、男声合唱がキングスカレッジという編制なのも当時はここまでやるの?とか思ったものでしたが、なんのその、です。
声をキレイに作り過ぎたアルトのPaul Esswoodさんは最初のところ、ちょっと違うんじゃないかな~と思ったけれど、何より誰より、名前を記載されていないウィーン少年合唱団員くんのソプラノソロがとにかく圧倒的に素晴らしすぎ。
聞き手に有無を言わせない「華」と「艶」のある声を聴かせているのです。
もう一人の団員くんも上手いけれど、声に曇り(人間的な温もり?)があるのがちと残念。
合唱やコラールを受け持つ少年合唱+男声合唱も完璧に超麗しい。器楽演奏は言うまでもありません。
ここまで来ると、マタイは、「人間的で情に溢れ、ドロドロしていてカッコ悪くて切実という私の先入観」なんかどうでも良くなるものなんです。
合唱に体温が欠けているのなんか関係ない。
この冷たさが少年合唱の心地よさなんだから、なんて思ってしまうのです。
その合唱に男声ソロと木管ソロが絡むと、まばゆさに眼(耳)がくらみそうになる。・・・これがマタイの世界?
あまりに麗しくカッコよすぎでまるで別の曲を聴いているかのようです。
コラールは総じて、冷涼系の少年合唱成分が加わることで神の世界のシステムの厳しさが表現されているように思います。でもレーゲンスの声の彩は単に冷たいだけではないところがミソ。
第1部の最終コラールを聴きながらも27曲で歌われたソプラノとアルトの重唱のあまりの美しさの余韻に茫然としてしまいました。キリちゃんが捕らえられたので悲しみに月も星も姿を消したというくだりですが、月よりも星よりもボーイ・ソプラノが美しすぎる・・・。
(もしかしたら私ってば、アーノンクールが好きかもしれない・・・)
群衆に紛れてキリちゃんを追い見守る女性という設定は、30曲のアリアからも感じてしまうのですが・・・拡大解釈・・・。
・・・ただし全体に美しすぎるので・・・。キリちゃんをなぶる群集のところからは、少年声を抜いて欲しかったかもしれません。
普通の民衆と天や天使の成分が入っているコラールの部分は聴こえてくる合唱も違って良いんじゃないかと思うので。この件に関しては、全体を通してそう感じました。
ところで、問題のペーちゃんがキリちゃんを知らないと3回否定するシーンに出てくる女中さん、この盤ではすんごく可愛いです。ソロしているのはウィーン少年合唱団員くんかもしれないし、レーゲンスブルク大聖堂聖歌隊員くんかもしれないですが、悪気無くてとっても良いです。
ピラトの奥さんもソロしているのでウィーン少年合唱団員くんでしょう。こっちは心持ち女性の艶が欲しいところ。
さて問題の39曲のアルトのアリア Erbarme dich, ですが、ペーちゃんが歌うのではなくてアルトなのは、私も「普遍性」のためだと思います。
ペーちゃんの名誉のために付け加えますが、ペーちゃんは言ったのでなくて予言が成就するために「言わされた」のですから絶対にこんな歌は歌いません。と思います。
(ペーちゃん、いつか、黄金の光がふりそそぐ芝生の上で、いっしょに日向ぼっこしようね~。)
ここのアルトはキリちゃんをそういう立場に追いやった人間全体、存在そのものの悲しさだと思います。歌っているのはガリラヤから従ってきたマグダラのマリアさん。(←私の中では)
第48曲49曲の美味しい曲は残念ながら曇り声のソプラノ君。天使ではなくて人間サイドで歌ったという解釈かと思われます。が、冷徹な天使サイドのソプラノを聴きたかったな~。
52曲のアルトアリアは誰だろう?なんだか気になってしまう。(トムさんかジェームズさんか、なんだか好きな声)
本当はこの曲、心から濁流のごとく血を流して歌って欲しいところなんですが、声が好きなのでドロドロしていないけれど許してしまいました。あっさりはしているけれど弦楽器の音とともに伝わってくるアルトなので。・・・ここもまた聴き所です。
同じく聴き所の54曲のコラール。合唱の清らかさが生きるところでもあります。
67曲のレチタティーヴォが合唱をはさんでバス、テノール、アルト、ソプラノとトーンを上げていって、終曲の合唱で少年声の効いた音色で締める演出もなかなかです。
通して聴いた印象では、アーノンクールのマタイは、濁ったいろいろな要素は沈殿させて、上澄みのように透き通った部分を掬っているかのようで、劇的な感情の動きは無いものの、抑制によって気品高く、でも、悲しみがヴェールのように浮かび上がってくるようでした。
アーノンクールの美意識と、少年合唱美が結実したファンにとっては理想的なマタイだったような気がします。
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