ウィーン少年合唱団 ~ フルトヴェングラーのマタイ2009年03月10日 19時53分01秒

フルトヴェングラーのマタイ

Bach ST.MATTHEW'S PASSION (SEVENSEAS K19C 9406/8)

これ、あくまでもフルトヴェングラーのマタイです。ウィーン少年合唱団は、合唱やコラールの一部に参加しているだけです。

続けて聴いてくると、(当然といえば当然ですが)指揮者によって解釈が違うんだなあということを感じます。それが良いとか悪いとかではなくて、違うということをです。

この音源は古いので、採録の仕方は良くありません。音の輪郭が滲んで聴こえてきますし、多くの音がとけかかった砂糖みたいに混じって聴こえ、一つ一つの音がクリアに聞こえません。

でも、この演奏も、私は好きです。

特に、ソロが良いと思います。女声アルトが好きです。

合唱やコラールに少年合唱団を入れたり外したり、その意味合いまでは私には聴こえていませんが、解らないなりに説得力があるなあと感じます。
テンポは遅いような気もしますが、演奏は丁寧で、少年の声が入ると涼しくなる。

この演奏を聴き始めたとき、メンゲルベルクのと比較して、なんだか華やかな感じがしました。原因はわかりません。

トーマス教会のマタイも良かったし、メンゲルベルクも良かったけれど、このフルトヴェングラーも良い。それぞれが違うのだけれど、どれも好きです。

日本語訳を見ながら聴いていて、受難曲だから、復活までは描かれていないんだ、と改めて確認したり、ホント、私って何も知らないですね。

最近、私は神さまに対して懐疑的です。
(キリスト教徒ではありませんので。念のため。で、近しく友だちみたいに呼んでいますが、信者のみなさん、悪意はありませんので、どうぞよろしくお願い致します。)

だから受難曲も斜に構えて聴いてしまう。

たとえば、ユダくんは、何故、キリちゃんを銀貨30枚で売ったのでしょう。お金を必要としていたとは思えません。

そしてペーちゃん(大好きなペテロくん)は、何故、3度も、キリちゃんを知らないと言ったのでしょう。

・・・全て「予言が成就されるため」ですよね。

普通だったらイチイチ チェックされないものを、なぜかわざとらしく? 鶏が鳴く前に3度も人がやってきて尋ねられた。言わされたのだと思います。聖書の中では、予言を思い返してペーちゃんは泣いたことになっているけれど、冷静に状況を判断したときに、そうさせられたのだと気が付いて、怒り狂ったと思いますよ~。(私だったら、腹を立てているだろうなあ)

登場人物の中で、どうも、神さまと通じていたらしいのは磔を前もってOKしていたらしいキリちゃんのみ。
とすると、途中で「エリ、ラマ、サバクタニ」と言ってしまったキリちゃんて・・・疑問符。

そしてそして、妄想たくましいですが、アルトのアリアさんについて。
彼女って、もしかしたら、キリちゃんを心から愛し信頼していた普通の人間の女性で、大勢の人に紛れて最後までキリちゃんを見守った(?護ってはいないかもしれないけれど)特別な人かな、って。
(そしてダヴィンチ・コードへつながる、なんちゃって)

アリアから、そういうストーリーが聴こえてくるんですよね~。

聖書をまともに読んでいる訳ではないですし、本当のところはわかりませんが。

なんだか、マタイを俗っぽく聴いてしまっている私です。信者のみなさま。ごめんなさい。

コメント

_ ひろちゃん ― 2009年03月11日 08時37分08秒

こんにちは。

マタイ受難曲は ちょっと (いや かなり)苦手です。
長い・・長すぎる・・・。
ヨハネのほうが 好きです。

曲の内容の詳しいことは よく知らないので、「そうなんだ!」という事実ばかりです。 お恥ずかしい。
記事を拝見して、とても 参考になりました!
ありがとうございます。

フルトヴェングラーは 好きです。
マニアではないですが、「先生」として 尊敬しています。
フルトヴェングラーのマタイ・・聴いてみようかなと いう 気持ちになりました~♪

_ Nyanda ― 2009年03月11日 20時19分20秒

ひろちゃんさん、コメントをどうもありがとうございます。

ヨハネが好き、っていう気持ちはわかります。
ウィーン少年合唱団が活躍していますものね。

私は次はアーノンクールです。

B-Sソリストがウィーン少年合唱団員。
少年合唱がレーゲンス。
男声合唱がキングスのものです。

_ こびとかば ― 2009年03月13日 19時39分51秒

こんにちは。
マタイ漬けですねー。

アルトの Erbarme dich 、
レッスンでこの曲やったとき、流れからいってなぜ男声のアリアではないのかと質問し、
逆に何故だと思うかと聞かれ、
そうか、普遍性のためですねと納得したのを覚えてます。
ペテロひとりの悲しみに留めず、信者すべての悲しみとして聴衆に訴えるために
あえて声部をはずしたのだろうと。

現代の演奏で女性が演奏すると、そういううがった想像もありかもしれませんが、
当時は少年なわけで、
バッハがアルトに暗にそういう役付けを考えたと想像するのはちょっと難しいような。。

いえ、いろいろな考えがあっていいと思いますけどね。

ペテロをお好きとは、こんなとこまで通好みで。。

安彦良和氏の「イエス」という作品をご存知でしょうか?
もし読まれてなくて、マンガでも読んでもいいと思われたら、読んでみてください。
信者でない自分が接すると聖書ってどうにも納得できないところだらけですが、
実際はこうだったのかな、これならあったかもな、と思わされました。
信者でない者にとってたいへんわかりやすい内容です。
‘ペテロの否認’とそのあとの嘆きなんか、音楽で表現するよりさすがに真に迫ってます。
ペテロに感情移入してしまって、胸が痛くなりました。
作中ではイエスは「もののよく見えすぎる人」になってて、
「人」としてのイエスの苦悩も描かれてます。

合唱に少年が入るかどうかは、
当時は高声はぜんぶ少年ですよね、
なのであくまで現代の演奏においての解釈ということですね?
合唱を大人が歌うようになってもリピエノには児童の声を起用するというの、
不文律のようになってるのが不思議でもあります。
みんな少年だった当時に、リピエノを少年と指定するわけないから、そんな指定はないわけで。
やっぱりふさわしいと思われてでしょうけど、
知る限り、例外なさそうなのが不思議なのですが。。

それから、カトリックでは「復活」を、
プロテスタントでは「受難」そのものを、より重要視するのだと聞きました。
復活は神の子ゆえの奇跡なのでカトリックは「神性」を、
プロテスタントは神の子が人として、愛ゆえに苦痛と死を耐えてくださったことを、
重要ととらえるのだとか。
なので「受難曲」が大切なのでしょうね。
・・・信者の方に「違う」と言われたらごめんなさい。

長くなりました。
押し付けがましかったでしょうか。。

自由な発想は素敵だと思うので、邪魔にならないといいのですが。

_ Nyanda ― 2009年03月13日 21時10分58秒

こびとかば様

いつもどうもありがとうございます。
実際に歌っていらっしゃるお方のようですので
視点の違いと刺激を与えてくださいます。

私は信者として聴いているわけでは
ありませんし

どうしても神さまがいかにキリストやその弟子たちを使ったか、に注目してしまいます。

バッハの時代に関係なく
自分だったらどういう風に男声女声少年声を振り分けてこの世界を表現するか、とか思いながら聴いたりします。

セリフや言葉の意味からして
女声じゃないと、とか
少年声も入れて、とか
この辺、奈落の底のように、もっと暗くとか
イメージしながら、です。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
スパムコメント対策です。
コメントの上の欄に  少年合唱 の文字を入力願います。

  少年合唱

コメント:

トラックバック