ウィーン少年合唱団へ~今までどうもありがとう Thank you for the Vienna Boys' Choir ~ Concert in Rikuzentakata-shi of 1992/05/282011年08月05日 18時04分35秒



ウィーン少年合唱団
ウィーンの森の物語(TOSHIBA EMI TOVW-3646)March 22, 1992 東京厚生年金会館(ライヴ収録)

このときのソプラノソリストくんはその位置からペーターくんなのだと思うけれど、ビデオにはソプラノソロは収録されていない。だがシューベルトの詩篇から始まる歌声は今聴くと、ウィーン少ならではの独特の歌い回しが健在で繊細に美しい。この頃はTV放送もあって、このビデオには収録されていないメンデルスゾーンが高貴に素晴らしかったりする。
当時はそれほど好きではなかったオペレッタも、今見ると、声も良く演技も昔思っていたよりずっと上手で驚くばかりだ。このビデオの中で団員くんたちは輝ききっている。

1955年に初来日して以来、ウィーン少年合唱団は、2~3ヶ月もの長期に渡り日本全国をくまなく公演するようになり、地方公演も多かったので、私の子ども時代は、少年合唱団=ウィーン少年合唱団であり、その歌声を聴いたことが無くても、名前だけは知っている人が多かったと思う。ここ10年くらいは大都市中心の公演にシフトしていたので彼らを知らない人も増えた(と思う)けれど、今以上に浸透していた時代があった。
ここ11年間、ウィーン少年合唱団は毎年来日してくれたけれど、残念ながらコンサートには縁遠く、私は3年に一度の来日を待ち続けた時代のファンだ。友だちと隣町へ聴きに行き、コンサートが終わると友だちのお母さんが車で迎えに来てくれていた。車を運転するようになってからは、運転できる範囲内でコンサートを楽しんだ。

1992年のWSKは、仙台在住のCHOIR友だちと一緒に、私は25日の仙台、28日の陸前高田、29日の盛岡で聴いている。このときの陸前高田公演は、人口10万人以下の都市での公演が初めて実現したもので、実行委員会の招聘運動は3年がかりだったと5月30日の東海新報に載っていた。このときのメンバーの中には、帰国後に繊細で清冽な本家天使の歌声系のソロを録音したシュミディンガーくんもいて、撮らせてもらった写真は私の宝物にもなっている。ノートに残っている感想は「マーラーが新鮮だった」くらいだが、今になってみると、公演の度に出ていたライヴ盤は、パンフとともに、記録としても貴重だった。

コンサートの前日、27日に団員君たちは、陸前高田の高田小学校の子どもたちと一緒に、地引網を引き、三陸の魚を獲る楽しみを味わっている。
その約18年後、このときの来日組の公演地、仙台も石巻も陸前高田も2011.03.11に想像もできなかった災害に見舞われてしまうのだけれど、その1ヵ月後には、慈善公演を行い、その収益は、陸前高田市の小学校等に送られるという記事を新聞で読んで、泣けそうだった。

これは1992.05.29 10:00am キャピタルホテル前での記念撮影。

2010.05 陸前高田 震災前の海。

2010.05 陸前高田 震災前の高田松原の松林。


おそくら、これが、1992年来日組の団員くんたちが見た風景。
今はもう、この松原は、ない。これらの木々がどこへ流れたのかもわからない。

以前震災時。
阪神淡路大震災の時にはWSKが、新潟県中越大震災のときにはドラケンスバーグが被災地を訪問して、被災者と交流している。

が、今回、原発事故があったことで、この先、当分は、ウィーン少年合唱団だけではなく、外国の少年(少女)合唱団が来日コンサートを開催することはないような気がする。
思えばここ数十年、毎年数多くの少年(少女)合唱団が来日演奏を行ったものだ。

けれど、こうなってみて、かつては日本国内に居ながら多くの少年合唱団を聴くことができた時代を振り返り、改めて、特にも、ウィーン少年合唱団の日本における今までの演奏活動に、心から、どうもありがとう。と伝えたい。